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東京都北区の歴史
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所在地 東京都北区王子2-30-14

 今から約千年の昔、この付近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。
 この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年12月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの社に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になって当時の農民はその行列になって当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています。
 その後、明治中期に榎の大木ハ枯れ土地発展に伴い、その位置も現在の王子2丁目停留所となり社はその東部に移されました。
 昭和20年(1945年)4月13日の大空襲の際、猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災をここで完全に喰い止めて西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります。
 この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿と造営せんものと地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社殿を見るに至りました。
 この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊崇を高めています。

例大祭  初午
御縁日 毎月7日 17日 27日

  昭和29年(1954年)12月吉日 装束稲荷奉賛会

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所在地 北区王子1-11 (北とぴあ)

 ここにある石造物は、朝鮮でつくられたものです。中央にある人の像は石人といい、また両端の柱は望柱石といいます。ふつう、2体・2本でい一対をなします。中国では古くから宮殿・廟・墳墓の近くに置かれていました。唐の時代からは、墳墓の参道に規則正しく置く風習が盛んになりました。それが朝鮮に伝わり、それ以降の墳墓にはこの形態でつくられました。ここにある石人は花こう岩に文官を彫ったもので、日本の江戸時代にあたる朝鮮(李朝)時代後期のものです。また着用している衣の表と裏にある模様は役人の官位をあらわします。
 望柱石は墳墓の参道の入口に標識として置かれて、葱の花の形のような擬宝珠をのせた八角形のものです。その八角形の一面に獣が浮彫りにされ、また擬宝珠の下に雲形の模様がみられる点が特徴的です。


所在地 北区王子1-1-12 (王子神社)

 御祭神
  蝉丸公 神霊 
  逆髪姫 神霊 
  古屋美女 神霊 

「これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも逢坂の関」

の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第4子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ 「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。昭和20年(1945)4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和34年(1959)5月24日これを再建せり。
 王子神社 宮司

         毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌々と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年(1961)5月24日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。
 関神社奉賛会
 東京人毛商工組合 東京床山協会 
 東京かつら協会 関西かつら協会


所在地 北区王子5-2

 大防橋は、神谷堀に架せられた橋のひとつです。
 神谷堀は公称で、本来の呼称は甚兵衛堀のようです。この堀は、当初、排水の目的で掘削されたもののようです。その年代は明らかではありませんが、明治13年(1880)の地図に、すでに図示されています。
 明治40年(1907)、大蔵省印刷局抄紙部(しょうしぶ)の分工場が現在の王子5丁目団地のところに設置されるに伴って改修され、運河の役割も果たすようになりました。改修当時この辺りは湿地帯で、茅や雑草などが生い茂っていたといいます。大正5年(1916)、この分工場が王子製紙株式会社に払い下げになり、大正13年(1924)、再び改修されました。
 大防橋は、大坊橋とするのが本来のようです。豊島にある大道法師伝説(だいだらぼっちでんせつ)にちなむもののようです。最初は一枚石を何枚か並べた橋で、木の橋に架け替えになり、昭和3年(1928)、王子製紙株式会社が、鉄筋コンクリート橋に架け替えました。そのときの橋名板は、大防橋となっており、少なくともそれ以来、公式には大防橋となり、一般には、大防橋、大坊橋の両方が用いられています。この橋は、その後東京都に移管され、更に北区に引き継がれました。
 昭和43年(1968)の公記録に、運河には艀(はしけ)がパルプや油類を運行し、橋の上は大型貨物車が通行していると記されています。
 神谷堀は、その役割を終え、昭和52年(1977)埋立が完了し、その時から橋としての役割を終えていた大防橋も、昭和63年(1988)3月解体撤去されました。
  東京都北区


所在地 北区王子5-20

 庚申観音堂
抑セ此ノ古墳ハ人皇第八十七代四條帝ノ寛永年間俗稲武州豊島郡馬場村ト云レタル當地ニ年歯将ニ三十路許リノ女人修業者アリ名其也諸々慾求ニ■■カナル■■■衆生済度ノ大誓願ヲ旨トシ道心イトモ堅固ニ行ヒスマシツアリタリ時将■政権徳川氏ノ手ニ落チ天下平静ニ帰シタルトハ云ヘ未ダ戦乱時代ノ殺伐ナル気風多発ヲ存シ■■■云ハツ工商ニ到ルマデ上下等シク心雄■々闘争殺戮強窃盗等其ノ他アラユル不道不倫ノ行ニ公儀權刀ヲ以テシテ尚且ツ制スルニ由ナカリケルヲ庵生ハイタクモ■愁■■■此ノ哀レムベキ衆生ヲ罪ノケガレヨリ救ヒ善道ニ導カントテアラユル困苦艱難ヲ昌不屈不撓ノ道心ヲ以テ或ハ大雨沛然タルノ日又ハ降■■■■■■■■■■■■■■■■■氣ト戰ヒ村々ヲ巡リ又ハ路ノ傍ラニ立チテ佛道ヲ説キ勧善懲悪ノ範ヲ示シ或ル時ハ己ノタメニツヘクル一椀食ニ飢ヘタル人ヲ見テ之ヲ與ヘ或ル時ハ己ノ■■脱シテコゴエタル人ニ恵ム等ノ徳行ノ実尠少ナラズ斯シテ其ノ大誓願ニ向ツテ努ムルコト実ニ四十有余念健康頓ニ衰退シ炎ユルガ如キ信念ヲ胸ニ持チツ老衰■ツキ外出■ナス能ハザルニ至■アムナ
クロ一人庵室ノ裡ニ引キ籠リ日夜看経ト祈願ニノミ勤メツアル中盡命数ノ期ニ達シ明皎イタル月影大武蔵ノ西邉ニカクレントスル晩秋ノ暁キ■■■■■■■■■■■■■ク主ナキ庵裡ノ何■ヨリトモナク数旬ノ間レ■クトモナク■多ル鐘ノ音続キテハ絶ヘ絶ヘテハ続キ恰モ庵主生前日常ト坒異ナダルコト■行人皆■■■シテ■■トシテ思シ又暗然トシテ■庵主ノ徳行ヲ想ヒ出デテ眼ノアタリ竒瑞ト共ニ隨喜涙ニカキクレタリトノコナリ庵主ノ計一度傳ルヤ當馬場村■所遠近老若■■■■■■■ニ皆嘆キ悲シミ且ツ之ヲ惜ミ之ガ徳行ヲ永久ニ傳ヘ殘サンガ為メ相計リテ庵ノ傍ラニ碑ヲ建立シ懇ロナル供養ヲナシタルトナシ爾来来星霜ヲ閲スルコト実三百五十有餘年庵ハ朽チ果テ殘影ヲモ止メズ碑ハ風雨ニ晒ラサレ周囲ヲ薮ノ樹木ハ鬱蒼トシテ足ヲモ入ルル能ズ時代ノ推移ハ人心ヲシテ此ノ庵主ノ徳行ヲ■霊域■■■古蹟ニ封■■スハ悪戯等ヲナスモノアリ斯カル時ニハ其ノ都度霊顕アラタカナル奇端ヲ表ジテ其ノ人ヲ誡シムル此ノ古墳ニ対スル奇蹟ハ実ニ枚擧ニ遑アラズ然ルニ此ノ由緒アル古蹟見ル影■■荒廃シ祭司供養ヲ怠タルコト何歳ナルヤヲ計リ知ラズ茲ニ於力斉蔓ウルモノ相集ヒ更ニ今■タニ碑及一字ニ建立シ爾後一丗年九月八日トシテ縁リ■トナシ亡キ庵主■善供養■ミ且ツハ賛同者各位ト倶ニ守リ本尊トモアガメタリ茲ニ発企擧ニ出タルモ微弱ナル有志一同ノ力ニテハ■■貫徹ヲ期シ難キタメ諸彦ノ御同情■■リ御賛同■■賜り■該古績ノ由来ヲ略述シ高覧ニ供シクルモノナリ
  昭和五年六月八日 発願者 合唱敬白



所在地 北区王子6-9 (スーパーサミット王子店)

御祭神 白龍大明神
     黄龍明神 
     青龍明神 
     大山大神 
     一位大神
 
御祭日 9月10日



  御由緒
守護神として先祖が奉斎してきた神社で、北海道斜里郡清里町緑に小林直喜が木工場を興し戦後現在地に移って鉛筆の製造を手掛け、白羊鉛筆株式会社(現、株式会社べネフォーム)の邸内社として祀り、平成5年(1993)ここに現社殿を修復・新装した。

  御神徳
一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏の材料として用いられ、鉛筆の素材でもあった。家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の神の御恩を仰いだ。山は白龍大明神(西方)青龍明神(東方)黄龍明神(中央)の水神によって水源を護り、その水によって木は栄え、木は山の湧水を豊かにする。すべて神恩である。日夜御祭神に報恩感謝して努め励むことにより幸え給いて開運に導く神々である。
 平成6年(1994)9月吉日
 株式会社ベネフォーム 代表取締役社長 岡秀一 敬白


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