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東京都北区の歴史
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所在地 北区西ヶ原2-13

   国指定史跡(大正11年〔1922〕3月8日指定)

 慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。



 西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。



 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正5年(1916)6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑ひは、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。

 平成7年(1995)3月  東京都北区教育委員会





   二本榎保存之碑
 一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存された事を記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

   二本榎保存之碑
    公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり 老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
 大正5年(1916)6月 文学博士 三上参次撰 阪正臣書
 廣群鶴刻

(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
 平成13年(2001)3月  東京都北区教育委員会
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所在地 北区西ヶ原2-11-1

 この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天見屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命(応神天皇)、帯中日子命(仲哀天皇)で、由来については寛政5年(1793)火災により社殿古記録等一切が焼失したためよくわかっていません。『新篇武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守ソス・・・」と記され、古くは別当寺であった無量寺の境内にあり、寛政6年(1794)再建後もそこに祀られていました。『江戸所図会』にも、無量寺の裏の高台に描かれています。明治初年(1868)神仏分離の際、神明宮社地(現在の地)に移され(明治3年〔1970〕)、西ヶ原の総鎮守として奉祀されるに至ったものです。

社殿
社号額
舞殿

 末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があります。神明宮は天照大神を祭神としており、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社移転により末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木はその神木です。また、旧社務所は村の青年会の発起で渋沢栄一、古河市兵衛を筆頭とする諸氏の寄附により大正9年(1920)建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。

 なお、この境内から隣地にかけての一郭は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが発見されています。
 昭和52年(1977)3月  北区教育委員会

稲荷神社


熊野神社

疱瘡社

三峰神社・菅原神社


所在地 北区西ヶ原2-11-1 (七社神社)

 現在の七社神社の社地は、かっては 神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治44年(1911) に地上3~4メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切り株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政5年(1793)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年(1868)に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。
 平成5年(1993)3月  東京都北区教育委員会



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