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東京都北区の歴史
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所在地 北区豊島

 昔、この場所には明治~大正期につくられた豊島ドッグと呼ばれる堀割がありましたが、軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで、詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも、石積みの護岸が地価に残っており、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。
 このドッグは、現在の豊島2丁目から王子6丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などからみて、小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら、往来していたものと思われます。現在の豊島公園は、このドッグを埋め立てた土地の上につくられたものです。

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所在地 北区豊島7-15-7




        北区立豊川小学校発祥の地碑


                                       摂末社


所在地 北区豊島7-31-7 

 清光寺は医王山と号し、新義真言宗に属する寺院です。
 「新篇式武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光の開基で、寺号もその名によること、小田原衆所領役帳(永禄2年〔1559〕)に島津孫四郎知行十四貫文豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王は行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明〔私年号〕)の4基の古碑があることを伝えています。
 また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年〔1618〕)によれば、山号は常康山、保元2年〔1157〕豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽合い藍が建立されたこと、實正年中(1460~1465)、応仁年中(1467~1468)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明9年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正15年(1546)府河城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた際豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。



 この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保2年(1742)の作で、願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で、「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
 また、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。
 なお、この寺は豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。
  昭和51年(1976)2月 北区教育委員会



所在地 北区豊島8-27 (豊島馬場遺跡公園) 

豊島馬場遺跡
としまばんばいせき

 

豊島馬場遺跡は、古墳時代にはじまりの頃(およそ1700年前)に隅田川(旧荒川)沿いに人々が残した遺跡です。平成3年(1991)から約6年間に及び発掘調査で、壺や甕などのおびただしい数の土器や沓、鍬、舟のミニチュアなどの木製品が発見されました。なかでも日本最古のガラス小玉鋳型は、ガラス製品の製作技術などを考えるうえで貴重な出土品です。こうした遺物を使い、豊穣や繁栄などを祈る祭が行われていたとみられます。
  北区教育委員会



所在地 北区豊島8

 この付近の豊島8丁目には、かつて、洋紙製造に使う抄紙用フエルトなどを死蔵していた日本フエルト株式会社王子工場がありました。この工場が完成した大正8年(1919)当時、工場の周辺はまったくの田園地帯で、工場裏の荒川(現隅田川)を渡し船がゆっくり通るといったのどかな風景画みられたそうです。
 この工場は平成2年(1990)に、栃木県那須郡黒羽町へ移転しました。


所在地 北区豊島7-12-7

真言宗智山派
 成田山 豊栄寺
  大動尊霊験記    佐倉政秀 題額
余武蔵國豊嶋村栄次郎第三子也年二十三患眼病薬無効将失明聞祐天上人事欲得神助以治之詣三明院苦行三年効末顕明治四年五月十五日至成田山時縣令禁山籠余窃入山祈祷八日為堂守所発見訊問綦厳然而懇祷中不能出一語院主怪耒見徐問其故大感其寛恕亦終黙適旅館主人佐野屋五兵衛来懇請院主相扶上堂募資以継続之至十九日疲倦如綿精神朦朧忽有二童子出顕諗日 汝克耐苦行詢可嘉乃以神助治之宜擇業精励必成功矣 言畢而霊影失滅祈願成就而歸九月病癒矣令齢七十有六視力不衰燈下細字不用鏡真如霊言蹉子神徳洪大豈可測度哉明治六年四月深川行不動尊開帳事乃献物致報恩意又為帰依者設社忽得六十人社務極劇因挙講員荒井豊政氏為先達称豊栄講信徒七百有餘人亦非無故也 銘日
 天之蒼々 地之茫々 無臭無味 唯是篤行
 神佛除慶 眼再放光 老而益壮 業亦日昌
 大正12年(1923)5月 鈴木邦次郎 撰   鈴苦冨太郎 書

























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永山
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