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東京都北区の歴史
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所在地 北区上十条4-12-4

 この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩です。台座には「享保9年(1724)甲辰天11月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育て地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。



 像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用だれていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落したという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。



 また、地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へと向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。
 現在は環状7号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし、延命地蔵尊には参詣者の絶えることがなく、毎年8月24日の縁日には多くの人々で賑わいます。
 平成8年(1996)3月  東京都北区教育委員会


 
子育て地蔵尊
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所在地 北区上十条3-25-3

 雪峰院



 雪峰院には『御名号碑』、『六地蔵尊』があります。


所在地 北区上十条3-25-3 (雪峰院)

 御名号碑
 この碑は、長い間、無縁塔として供養されていますが、もともと高僧徳本の供養等として信仰されており、いろいろな所で目にすることができます。
 徳本は、宝暦8年(1758)日高郡志賀村(和歌山県)に父を田伏氏母を岩崎氏としてうまれた。
 4歳にして隣りの子供の病死を目のあたりにして御念仏を唱え出家を決心し天明4年(1784)27歳で大円上人に師事してただ御念仏を唱える行のみで仏教を極めたという。
 その後、紀州藩主の帰依を受け、大阪辺りを中心に行脚し御念仏を広め、たいへん民衆の帰依を受けた。
 46歳のとき浄土宗の本山江戸小石川伝通院(東京文京区)で行を受け免許状を得て日本全国を教化し、さまざまな人々の信仰を得て文化11年(1814)小石川に戻って一行院を再興し御念仏のみ教えを広めるための寺院とした。
 全国を巡り、浄土のみ教えを広く伝えたが、文政元年(1818)多くの弟子が見守るなか61年の生涯を終え、大往生なされた。
 亡くなった後も各地に徳本の御名号碑が建てられ、上人への信仰は尽きることはなかったという。

 雪峰院 院主


所在地 北区上十条3-25-3 (雪峰院)

 六地蔵尊
金剛願地蔵・・・地獄界救済
金剛宝地蔵・・・餓鬼界救済
金剛悲地蔵・・・畜生界救済
金剛撞地蔵・・・修羅界救済
金剛王地蔵・・・人道界救済
預天賀地蔵・・・天界救済

真言 オン カカカ ビサンマ エイソワカ
 真心をこめて祈願いたしますとどんなことでも必らず正しくお導き下さる六地蔵さまです。

 この世は人の暮らす人界と呼び、六道の一つで、この上に天人の住まう天界、人界の下に戦の絶えない修羅界があってその下に獣のすむ畜生界、またこの下には恐ろしい餓鬼のいる餓鬼界があり、もっとも下に皆がこわがる地獄界がある。人は今いきている世で良い行いをすれば、次にはよい世界に生まれ、逆に悪行を重ねれば、地獄に落ちてしまう。その繰り返しを六道輪廻(りんね)という。
 この輪廻から逃れるには、阿弥陀様に頼るとよい、「南無阿弥陀仏」を称えるとよい、と浄土の教はといている。
 お地蔵様は六道各々の世界に御姿を変えて皆を救済する、11世紀平安時代中期には六地蔵が書かれた書物があって、最初の記事と思われ、12世紀sy期の東北の覇者藤原清衡公は自身の持仏堂である中尊寺金色堂に六地蔵を安置し、15世紀室町中期には京都でお盆の7月24日に六地蔵をお参りして回る六地蔵詣がはやり、江戸時代17世紀以後になると、全国各地で六地蔵詣が流行し多くの寺院や地蔵尊が建てられ、今日でもお地蔵信仰に熱心な信者が多くますますさかんでありお地蔵様の信仰は今後も引き継がれていく。
 雪峰院 院主


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