東京都北区の歴史
× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 所在地 北区王子5-2 大防橋は、神谷堀に架せられた橋のひとつです。 神谷堀は公称で、本来の呼称は甚兵衛堀のようです。この堀は、当初、排水の目的で掘削されたもののようです。その年代は明らかではありませんが、明治13年(1880)の地図に、すでに図示されています。 明治40年(1907)、大蔵省印刷局抄紙部(しょうしぶ)の分工場が現在の王子5丁目団地のところに設置されるに伴って改修され、運河の役割も果たすようになりました。改修当時この辺りは湿地帯で、茅や雑草などが生い茂っていたといいます。大正5年(1916)、この分工場が王子製紙株式会社に払い下げになり、大正13年(1924)、再び改修されました。 大防橋は、大坊橋とするのが本来のようです。豊島にある大道法師伝説(だいだらぼっちでんせつ)にちなむもののようです。最初は一枚石を何枚か並べた橋で、木の橋に架け替えになり、昭和3年(1928)、王子製紙株式会社が、鉄筋コンクリート橋に架け替えました。そのときの橋名板は、大防橋となっており、少なくともそれ以来、公式には大防橋となり、一般には、大防橋、大坊橋の両方が用いられています。この橋は、その後東京都に移管され、更に北区に引き継がれました。 昭和43年(1968)の公記録に、運河には艀(はしけ)がパルプや油類を運行し、橋の上は大型貨物車が通行していると記されています。 神谷堀は、その役割を終え、昭和52年(1977)埋立が完了し、その時から橋としての役割を終えていた大防橋も、昭和63年(1988)3月解体撤去されました。 東京都北区 PR |
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