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東京都北区の歴史
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所在地 北区豊島7-31-7 

 清光寺は医王山と号し、新義真言宗に属する寺院です。
 「新篇式武蔵風土記稿」は、この寺は豊島清光の開基で、寺号もその名によること、小田原衆所領役帳(永禄2年〔1559〕)に島津孫四郎知行十四貫文豊島の内清光寺分とあって、当時大寺であったと推定されること、本尊の不動明王は行基の作で豊島の七仏の一つであること、境内に正安3年(1301)、文治2年(1186)、文明元年(1469)、永福5年(不明〔私年号〕)の4基の古碑があることを伝えています。
 また、ある旧家に伝わるこの寺の縁起(豊島重源の作、元和4年〔1618〕)によれば、山号は常康山、保元2年〔1157〕豊島康家(清光の父)の開基で七堂伽合い藍が建立されたこと、實正年中(1460~1465)、応仁年中(1467~1468)山賊悪徒等により寺宝・寺領などを掠奪されて寺が荒廃したこと、文明9年(1477)豊島泰経と太田道灌との戦いに際し、この寺の衆僧も共に戦ったが豊島勢の敗北とともに寺も没落してしまったこと、天正15年(1546)府河城主豊島頼継(泰経の孫)が中興開基したが、永禄6年(1563)上杉等の残党が府河城を攻めた際豊島にも押寄せて放火したため再び焼失したこと、この後豊島明重が再興したということです。



 この寺には豊島清光の木像が安置されています。この銘によれば、寛保2年(1742)の作で、願主は祐具、施主は長谷川弥兵衛とあり、祐具は当時清光寺内にあった釈迦堂の住僧であろうといわれ、長谷川弥兵衛は新田村(現足立区新田)の豪農であったということです。豊島清光は、その子葛西清重らとともに源頼朝の幕府創業に参加し、豊島氏一族のなかでもっとも名の知られた人で、「吾妻鏡」などにもその名が見えます。
 また、この地に豊島氏の居館があり、その持仏堂が清光寺であったという説や「続日本記」「延喜式」などに見える豊島駅がこの地にあったという説もあります。
 なお、この寺は豊島清光が家庭的に不幸であったため菩提寺として建立したという説もあります。
  昭和51年(1976)2月 北区教育委員会

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