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東京都北区の歴史
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所在地 東京都北区王子2-30-14

 今から約千年の昔、この付近一帯は野原や田畑ばかりでその中に榎の大木があり、そこに社を建てて王子稲荷の摂社として祭られたのがこの装束稲荷であります。
 この社名の興りとして今に伝えられるところによれば毎年12月の晦日の夜、関東八ヶ国の稲荷のお使いがこの社に集まりここで装束を整えて関東総司の王子稲荷にお参りするのが例になって当時の農民はその行列になって当時の農民はその行列の時に燃える狐火の多少によって翌年の作物の豊凶を占ったと語り伝えられています。江戸時代の画聖安藤広重もこの装束稲荷を浮世絵として残しています。
 その後、明治中期に榎の大木ハ枯れ土地発展に伴い、その位置も現在の王子2丁目停留所となり社はその東部に移されました。
 昭和20年(1945年)4月13日の大空襲の際、猛烈な勢いで東南より延焼して来た火災をここで完全に喰い止めて西北一帯の住民を火難から救ったことは有名な事実であります。
 この霊験あらたかな社が余りにも粗末であったので社殿と造営せんものと地元有志の発起により多数の信者各位の御協力を得て現在の社殿を見るに至りました。
 この装束稲荷は商売繁盛の守護神のみならず信心篤き者は衣装に不自由することなく又火防の神としても前に述べた通りで信者の尊崇を高めています。

例大祭  初午
御縁日 毎月7日 17日 27日

  昭和29年(1954年)12月吉日 装束稲荷奉賛会

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所在地 北区滝野川7-8-1 (寿徳寺境外墓地)



  東京都北区指定有形文化財(歴史資料)

   近藤勇と新選組隊士供養塔 



 慶応4年(1868)4月25日、新選組局長であった近藤勇は、中山道板橋宿手前の平尾一里塚付近に設けられた刑場で官軍により斬首処刑されました。その後、首級は京都に送られ胴体は刑場より少し離れたこの場所に埋葬されました。



 本供養塔は没後の明治9年(1876)5月に隊士の一人であり近藤に私淑していた永倉新八(本名長倉)が発起人となり旧幕府御典医であった松本順の協力を得て造立されました。高さ3.6m程ある独特の細長い角柱状で、4面の全てにわたり銘文がみられます。正面には、「近藤勇 冝昌 土方歳三義豊 之墓」と刻まれており、副長の土方歳三の名も近藤勇の右に併記されています。なお、近藤勇の諱である昌宜が冝昌とされていることについては明らかになっておりません。右側面と左側面には、それぞれ8段にわたり井上源三郎を筆頭に合計110名の隊士などの名前が刻まれています。裏面には、当初は「近藤 明治元年(1868)辰4月25日 土方 明治2年(1869)巳5月11日 発起人 旧新選組局長倉新八改杦村義衛 石工 牛込馬場下横町平田四郎右衛門」と刻まれていましたが、一部は現在判りにくくなっています。



 戦術方針の相違から一度は近藤と袂を分った永倉ですが、晩年は戦友を弔う日々を送ったと伝えられています。本供養塔には、近藤勇のほか数多くの新選組ゆかりの者たちが祀られているので、新選組研究を行う際の基本資料とされ、学術性も高く貴重な文化財です。

     平成16年3月 東京都北区教育委員会      
     


所在地 北区上十条4-12-4

 この地蔵尊は、袈裟をまとい、右手に錫杖を執り、左の掌に宝珠を載せ、正面を向いて蓮華座に立つ、安山岩系の石材を丸彫りした地蔵菩薩です。台座には「享保9年(1724)甲辰天11月吉日 石橋供養」の銘文が刻まれています。向かって左側の堂内には石造の子育て地蔵尊がまつられています。説明板の横には、道しるべでもある小型の文字庚申塔と地蔵尊の由来碑があります。



 像は、「姥ヶ橋の地蔵様」と呼ばれて親しまれています。姥ヶ橋とは、稲付川に架かっていた橋の名称です。稲付川は石神井川の支流であり、根村用水とも北耕地川ともいって農業用水として利用だれていました。姥ヶ橋には、誤って川に子どもを落して死なせてしまった乳母が、自ら責めを負ってこの橋から身を投げて命を落したという伝説があります。そして地蔵尊の造立は、乳母の供養のためと伝えられていますが、銘文によれば川に架かる石橋の安全供養のためによるものです。



 また、地蔵尊は、二つの道が出合う地点にあったことから「出合地蔵」とも呼ばれています。橋のたもとは、川口への交通路としても利用された十条・板橋道と中山道から分かれて王子稲荷へと向かう王子道とが合流する交通の要所だったのです。
 現在は環状7号線の建設で川は暗渠となり、姥ヶ橋も姿を消しました。しかし、延命地蔵尊には参詣者の絶えることがなく、毎年8月24日の縁日には多くの人々で賑わいます。
 平成8年(1996)3月  東京都北区教育委員会


 
子育て地蔵尊


所在地 北区岸町1-12-26









 王子稲荷神社境内には『狐の穴跡』、『額面著色鬼女図』、『願掛けの石』があります。


所在地 
北区岸町1-12-26 (王子稲荷神社)

国認定重要美術品
 額面著色鬼女図
     昭和9年(1934)9月認定

 日本画家・蒔絵師として著名な柴田是真作の額面著色鬼女図は、天保11年(1840)2月初午に、江戸住吉の砂糖承認の同業組合である明徳講が、商権の拡大を願って奉納した絵馬です。
 絵馬は、凡そ縦190cm、横245cmの大きさで、画面いっぱいには、酒呑童子の家来茨木童子が化けた鬼女の姿が描かれています。
 源頼光の家臣渡辺綱は、女に化けた茨木童子の退治に出かけ、その女の片腕を切り取ってしまいました。6日後のこと、鬼女は、切り取られた腕を取り返すべく、渡辺綱の伯母に化けて、綱の屋敷を訪れます。鬼女は、腕を取り返すや否や、伯母から変じて目を怒らせ、口を開き、疾風のごとく空中に飛び去りました。
 この画の麗美な衣装とグロテスクな面貌との対照が場面の凄みを高め、人々を慄然とさせ、是真の名を世に知らしめる契機となったと伝えられます。
 平成22年(2010)11月 東京都北区教育委員会


所在地 北区豊島

 昔、この場所には明治~大正期につくられた豊島ドッグと呼ばれる堀割がありましたが、軍の施設でもあったため、陸軍が荒川(現隅田川)の水運を利用するために掘ったといわれているだけで、詳細な資料は残されていません。しかし、現在でも、石積みの護岸が地価に残っており、かなりしっかりした構造のものであったことがうかがわれます。
 このドッグは、現在の豊島2丁目から王子6丁目に至る堀割で、石神井川の新河口を経て隅田川と連絡しており、板橋火薬製造所王子工場で製造された弾薬などをこの堀割を通して隅田川まで運び出していたようです。水路の幅などからみて、小型の船舶が現存の豊島中学校付近にあった船溜まりで方向転換しながら、往来していたものと思われます。現在の豊島公園は、このドッグを埋め立てた土地の上につくられたものです。



所在地 北区王子1-11 (北とぴあ)

 ここにある石造物は、朝鮮でつくられたものです。中央にある人の像は石人といい、また両端の柱は望柱石といいます。ふつう、2体・2本でい一対をなします。中国では古くから宮殿・廟・墳墓の近くに置かれていました。唐の時代からは、墳墓の参道に規則正しく置く風習が盛んになりました。それが朝鮮に伝わり、それ以降の墳墓にはこの形態でつくられました。ここにある石人は花こう岩に文官を彫ったもので、日本の江戸時代にあたる朝鮮(李朝)時代後期のものです。また着用している衣の表と裏にある模様は役人の官位をあらわします。
 望柱石は墳墓の参道の入口に標識として置かれて、葱の花の形のような擬宝珠をのせた八角形のものです。その八角形の一面に獣が浮彫りにされ、また擬宝珠の下に雲形の模様がみられる点が特徴的です。


所在地 北区岸町 王子本町

 この坂は、王子稲荷神社の南側に沿って東から西に登る坂で、神社名から名前がつけられています。また江戸時代には、この坂を登ると日光御成道(にっこうおなりみち)があり、それを北へ少し進むとさらに北西に続く道がありました。この道は姥ヶ橋(うばがばし)を経て、蓮沼村(はすぬまむら)(現板橋区清水町)まで続き、そこで中山道(なかせんどう)につながっていました。この道は稲荷道と呼ばれ、中山道から来る王子稲荷神社への参詣者に利用されていました。
 平成5年(1993)3月 北区教育委員会 




所在地 北区岸町1-15-25

本園は嘉永年間(1848~1854)王子村の名主畑野孫八が自邸に開いた江戸情趣豊かな庭園で台地の斜面を巧みに利用し自然の風景を取入れ園内の滝は古来王子の七滝の一つとして著名です。
明治時代の手法を残す都内でも数少い貴重な景勝地です。 



男滝
女滝
独鈷の滝


所在地 北区岸町2

名主の滝公園の北端に沿って台地へ登る曲がりくねった坂道である。坂名の由来は、江戸時代の絵図にある三平村の名からとも、室町時代の古文書にある十条郷作人三平の名からともいわれている。農家の人が水田へ下る道路であったが、名主の滝への道としても利用されたようである。

 平成2年(1990)3月  北区教育委員会


所在地 北区西ヶ原2-13

   国指定史跡(大正11年〔1922〕3月8日指定)

 慶長9年(1604)2月、江戸幕府は、江戸日本橋を基点として全国の主要街道に一里塚を築き、街道の道程を示す目安とすることを命じました。



 西ヶ原一里塚は、本郷追分の次の一里塚で、日本橋から数えると日光御成道の2番目の一里塚にあたります。都内の日光御成道は現在の本郷通りが主要なルートにあたりますが、岩淵宿から船で川口宿に渡ると鳩ヶ谷・大門・岩槻の各宿場を北上して幸手宿で日光街道に合流しました。将軍が日光東照宮に社参する際の専用街道として使用されたので、この名称が定着しましたが、岩槻藩主の参勤交代や藩の公用通行路に使われたので岩槻街道とも称されました。



 旧道をはさんで一対の塚が現存していますが、これは旧位置に保存されている都内の一里塚として貴重な文化財です。車道の中に位置する方の塚には「二本榎保存之碑」と題される大正5年(1916)6月の記念碑があります。西ヶ原一里塚は当時、東京市電の軌道延長路線上に位置したため、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりました。碑ひは、こうした経緯と、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが刻まれています。西ヶ原一里塚は、大正時代に文化人と住民が一体となって文化財の保存に成功した例としても記念碑的な意義をもつものといえます。

 平成7年(1995)3月  東京都北区教育委員会





   二本榎保存之碑
 一里塚に建つこの碑は、大正初期に西ヶ原の一里塚と榎が東京市電の軌道付設で撤去されてしまうのを渋沢栄一はじめ東京市長、滝野川町長、地元住民の努力により保存された事を記念して、運動に参加した有志者により建てられました。案文を記した三上参次は歴史学者で名文家としても知られています。この時保存された榎は年と共に枯れ、現在の木は新しく植栽されたものです。

   二本榎保存之碑
    公爵徳川家達題
府下北豊島郡瀧野川町大字西ヶ原に幹太く枝茂りて緑陰地を覆ひ行人皆仰ぎ見て尋常の古木に非ざるを知るものあり之を二本榎と云ふ是れ旧岩槻街道一里塚の遺存せるものにして日本橋元標を距ること第二里の所なりとす往昔群雄割拠の世道路久しく乞梗塞せしか徳川氏覇府を江戸に開くに当り先づ諸街道の修築を命じ道を夾みて松を植ゑ里毎に塚を置き塚には榎を植ゑしむ之を一里塚と云ふ然るに年を経て塚多くは壊れ榎も亦斧片の厄を免れず今存するもの甚少し二本榎は実に其存するものゝ一なり先年東京市は電車軌道を王子駅に延長せんとの企あり一里塚も道路の改修と共に撤廃せられんとせしが幸にして市の当事者学者故老の言を納れ塚を避けて道を造り以て之を保存せんとの議を決したり法学博士男爵阪谷芳郎君東京市長となるに及び将来土地の繁栄と共に車馬躪落老樹の遂に枯損せん事を虞り瀧野川町長野木隆歓君及び有志者と謀る所あり男爵渋沢栄一君最も力を之に尽し篤志者の義損を得て周辺の地を購ひ人家を撤して風致を加へ以て飛鳥山公園の附属地となせり阪谷市長職を去るに及び現市長法学博士奥田義人君亦善く其事を継承す今茲工成りて碑を建てんとし文を予に嘱せらる予嘗て大日本史料を修め慶長九年の條に於て一里塚の由緒を記したる事あり又此樹の保存に就きて当路者に進言せし縁故あり乃ち辞せずして顛末を叙すること此の如し惟ふに史蹟の存廃は以て風教の汚隆を見るべく以て国民の文野をトすべし幕府治平を講ずるに当り先づ施設せる所のもの今や纔に廃頽を免れて帝都の郊外に永く記念を留めんとするは実に渋沢男爵両市長町長及び諸有志者の力に頼れり 老樹若し霊あらば必ず諸君の恵を感謝せん後の人亦諸君の心を以て心となさば庶幾くは此史蹟を悠久に保存することを得ん
 大正5年(1916)6月 文学博士 三上参次撰 阪正臣書
 廣群鶴刻

(裏面)
此石はもと江戸城の外郭虎の門の石垣を用ゐたるものなり虎の門は慶長年間に始めて築造せられ其後数次の修復を経たるが明治年間撤廃して石垣も亦毀たれたり今之に充てたるは江戸の史跡を顕彰するに於て適当の記念物なればなり
(一部原文を現代かな漢字に直しています)
 平成13年(2001)3月  東京都北区教育委員会


所在地 北区西ヶ原2-11-1

 この神社の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天見屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命(応神天皇)、帯中日子命(仲哀天皇)で、由来については寛政5年(1793)火災により社殿古記録等一切が焼失したためよくわかっていません。『新篇武蔵風土記稿』には「村ノ鎮守ソス・・・」と記され、古くは別当寺であった無量寺の境内にあり、寛政6年(1794)再建後もそこに祀られていました。『江戸所図会』にも、無量寺の裏の高台に描かれています。明治初年(1868)神仏分離の際、神明宮社地(現在の地)に移され(明治3年〔1970〕)、西ヶ原の総鎮守として奉祀されるに至ったものです。

社殿
社号額
舞殿

 末社には神明宮、稲荷神社、熊野神社、菅原神社、三峯神社があります。神明宮は天照大神を祭神としており、もともとこの地にあった神社ですが、七社神社移転により末社となったものです。現在、切株が残っている杉の古木はその神木です。また、旧社務所は村の青年会の発起で渋沢栄一、古河市兵衛を筆頭とする諸氏の寄附により大正9年(1920)建てられたもので、公会堂を兼ねたものでした。

 なお、この境内から隣地にかけての一郭は七社神社裏貝塚として知られた遺跡で、縄文式土器、弥生式土器、土師器などが発見されています。
 昭和52年(1977)3月  北区教育委員会

稲荷神社


熊野神社

疱瘡社

三峰神社・菅原神社


所在地 北区西ヶ原2-11-1 (七社神社)

 現在の七社神社の社地は、かっては 神明宮の社地でした。神明宮は、天照大神を祭神とし、神木が樹齢千年以上といわれる杉であったことから、一本杉神明宮と呼ばれていました。明治初年に七社神社がこの地に移転してきたことにより、神明宮は七社神社の摂社となり、天祖神社と呼ばれるようになりました。杉の古木が枯れたため、明治44年(1911) に地上3~4メートルのところを残して伐採されましたが、現在もその切り株は残っています。
 七社神社は、江戸時代には七所明神社といい、西ヶ原村の鎮守で、別当である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山四社明神を移し祀り、これに天照大神・春日・八幡の三神を合祀したものといいます。詳しい由来は、寛政5年(1793)の火災によって、社殿をはじめ古文書・古記録等を焼失したためよくわかりません。神仏分離によって、明治初年(1868)に現在地である神明宮社地に移されました。現在の祭神は伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、品陀別命、帯中日子命の七神です。境内には摂社となった天祖神社の他に、末社として稲荷神社・菅原神社・三峯神社・熊野神社・疱瘡社があります。
 平成5年(1993)3月  東京都北区教育委員会



所在地 北区東田端 ~ 田端

  橋の由来
旧田端大橋は、昭和10年(1935)に架設された突桁式下路桁三径間ゲルバー式全溶接橋です。
 当時、この橋は現場継手部も溶接した文字どおりの全溶接橋として東洋では最初で最大級の橋として注目を浴びました。
 この溶接技術は、その頃の造船技術(軍艦建造技術)を生かしたものであり、当時の技術者が遭遇した数々の苦労話が残されています。



  橋の概要
竣工年月日  昭和10年(1935)12月27日
形式       突桁式下路版桁三径間ゲルバー式
橋長       135.0メートル
橋梁幅     13.80メートル
道路幅員    11.00メートル(当時)
総鋼重量    約591トン(当時)



  残存の経緯
旧田端大橋は、近年経済発展に伴う自動車交通量の増加と年月の経過による老朽化が進んだため、東京都は、昭和62年(1987)に新田端大橋を架設しました。
新田端大橋が開通したことにより、本橋の役目は終り、当初の計画では撤去する予定でありました。しかし、歴史的にも学術的にも貴重な橋であり、また地域住民の方画家から歩道橋として再生利用の強い要望があることを考え、田端ふれあい橋として生まれ変ることになりました。

  平成4年(1992)3月  東京都北区


所在地 北区田端

 田端には、明治時代末期から大正~昭和時代初期にかけて、画家、陶芸家、彫刻家、俳人、歌人、文学者、小説家がこの地域に住み、当時の日本文化をリードしていたたtめ、田端は日本のモンマルトルと呼ばれていました。
 明治33年(1900)に小杉未醒が住み始めてから明治末期に至るまでは「芸術家村」として知られ、その後大正3年(1914)に芥川龍之介が住んでからは次々と文士が住むようになり、一躍「文士村」に変身しました。



 田端文士村の主な年表
明治33年~  小杉未醒(洋画家)
   36年~  板谷波山(陶芸家)
   40年~  下嶋勲(俳人)
   42年~  香取秀真(歌人)
   42年~  北原大輔(日本画家)
   44年~  山本県(洋画家)
   45年~  吉田三郎(彫刻家)
大正  3年~  芥川龍之介(小説家)
     3年~  村山槐多(洋画家)
     3年~  田辺至(洋画家)
     5年~  室生犀星(小説家)
     7年~  平塚らいてう(評論家)
     8年~  太田水穂(歌人)
     8年~  小穴隆一(俳人)
     8年~  平木ニ六(詩人)
     9年~  堆朱楊成(陶芸作家)
     9年~  瀧井孝作(俳人)
   10年~  福士幸次郎(詩人)
   12年~  菊池寛(小説家)
   13年~  窪川鶴次郎(詩人)
   13年~  堀辰雄(小説家)
   14年~  宮本喜久雄(詩人)
   14年~  萩原朔太郎(詩人)
   14年~  土屋文明(歌人)
   15年~  佐多稲子(小説家)



  田端機工街について
 田端新町から昭和町にかけての明治通り沿いを中心として、大小約百軒の各種機械器具製造工場が軒を並べています。
 これらの町工場は、昭和初期から昭和20年(1945)頃までの間に各地から集まってきたものであり、その当時明治通りは、京浜工業地帯から川口鋳物工場へ材料を運搬する経路となり、その途中にあるこの一帯に作業工具の店や材料、機械を製造する店が建ったと言われています。
 その後、満州事変や日中戦争、第二次世界大戦などの戦争景気の影響を受けて目覚ましい発展を遂げてきましたが、当地域には軍の施設や軍需工場があったため、戦争により空襲を免れることは出来ませんでした。
 戦後は、戦前の半分程度に減ってしまったと言われますが、現在でも百軒近い機械製造工場が活発な産業活動を続けています。

  平成4年(1992)3月  東京都北区


所在地 北区王子1-1-12 (王子神社)

 御祭神
  蝉丸公 神霊 
  逆髪姫 神霊 
  古屋美女 神霊 

「これやこの 行くも帰るも 別れては
           知るも知らぬも逢坂の関」

の和歌で有名な「蝉丸公」は延喜帝の第4子にして和歌が巧みなうえ、琵琶の名手であり又 髪の毛が逆髪である故に嘆き悲しむ姉君のために侍女の「古屋美女」に命じて「かもじ・かつら」を考案し髪を整える工夫をしたことから「音曲諸芸道の神」並に「髪の祖神」と博く崇敬を集め「関蝉丸神社」として、ゆかりの地 滋賀県大津の逢坂山に祀られており、その御神徳を敬仰する人達が「かもじ業者」を中心として江戸時代 ここ 「王子神社」境内に奉斎したのが、当「関神社」の創始なり。昭和20年(1945)4月13日戦災により社殿焼失せしが、人毛業界これを惜しみて全国各地の「かもじ・かつら・床山・舞踊・演劇・芸能・美容師」の各界に呼び掛け浄財を募り昭和34年(1959)5月24日これを再建せり。
 王子神社 宮司

         毛塚の由来
釈尊が多くの弟子を引き連れて、祇園精舎に入られたとき貧女が自らの髪の毛を切り、油に変えて献じた光が、大突風にも消えることなく煌々と輝き世に貧女の真心の一灯として髪の毛の尊さと共に、毛髪最古の歴史なりと永く言い伝えられる由縁である。
毛髪を取り扱う我々業者は毛髪報恩と供養の為に、昭和36年(1961)5月24日「関神社」境内に毛塚の塔を建立し永く報恩の一助とする。
 関神社奉賛会
 東京人毛商工組合 東京床山協会 
 東京かつら協会 関西かつら協会


所在地 北区王子5-2

 大防橋は、神谷堀に架せられた橋のひとつです。
 神谷堀は公称で、本来の呼称は甚兵衛堀のようです。この堀は、当初、排水の目的で掘削されたもののようです。その年代は明らかではありませんが、明治13年(1880)の地図に、すでに図示されています。
 明治40年(1907)、大蔵省印刷局抄紙部(しょうしぶ)の分工場が現在の王子5丁目団地のところに設置されるに伴って改修され、運河の役割も果たすようになりました。改修当時この辺りは湿地帯で、茅や雑草などが生い茂っていたといいます。大正5年(1916)、この分工場が王子製紙株式会社に払い下げになり、大正13年(1924)、再び改修されました。
 大防橋は、大坊橋とするのが本来のようです。豊島にある大道法師伝説(だいだらぼっちでんせつ)にちなむもののようです。最初は一枚石を何枚か並べた橋で、木の橋に架け替えになり、昭和3年(1928)、王子製紙株式会社が、鉄筋コンクリート橋に架け替えました。そのときの橋名板は、大防橋となっており、少なくともそれ以来、公式には大防橋となり、一般には、大防橋、大坊橋の両方が用いられています。この橋は、その後東京都に移管され、更に北区に引き継がれました。
 昭和43年(1968)の公記録に、運河には艀(はしけ)がパルプや油類を運行し、橋の上は大型貨物車が通行していると記されています。
 神谷堀は、その役割を終え、昭和52年(1977)埋立が完了し、その時から橋としての役割を終えていた大防橋も、昭和63年(1988)3月解体撤去されました。
  東京都北区


所在地 北区王子5-20

 庚申観音堂
抑セ此ノ古墳ハ人皇第八十七代四條帝ノ寛永年間俗稲武州豊島郡馬場村ト云レタル當地ニ年歯将ニ三十路許リノ女人修業者アリ名其也諸々慾求ニ■■カナル■■■衆生済度ノ大誓願ヲ旨トシ道心イトモ堅固ニ行ヒスマシツアリタリ時将■政権徳川氏ノ手ニ落チ天下平静ニ帰シタルトハ云ヘ未ダ戦乱時代ノ殺伐ナル気風多発ヲ存シ■■■云ハツ工商ニ到ルマデ上下等シク心雄■々闘争殺戮強窃盗等其ノ他アラユル不道不倫ノ行ニ公儀權刀ヲ以テシテ尚且ツ制スルニ由ナカリケルヲ庵生ハイタクモ■愁■■■此ノ哀レムベキ衆生ヲ罪ノケガレヨリ救ヒ善道ニ導カントテアラユル困苦艱難ヲ昌不屈不撓ノ道心ヲ以テ或ハ大雨沛然タルノ日又ハ降■■■■■■■■■■■■■■■■■氣ト戰ヒ村々ヲ巡リ又ハ路ノ傍ラニ立チテ佛道ヲ説キ勧善懲悪ノ範ヲ示シ或ル時ハ己ノタメニツヘクル一椀食ニ飢ヘタル人ヲ見テ之ヲ與ヘ或ル時ハ己ノ■■脱シテコゴエタル人ニ恵ム等ノ徳行ノ実尠少ナラズ斯シテ其ノ大誓願ニ向ツテ努ムルコト実ニ四十有余念健康頓ニ衰退シ炎ユルガ如キ信念ヲ胸ニ持チツ老衰■ツキ外出■ナス能ハザルニ至■アムナ
クロ一人庵室ノ裡ニ引キ籠リ日夜看経ト祈願ニノミ勤メツアル中盡命数ノ期ニ達シ明皎イタル月影大武蔵ノ西邉ニカクレントスル晩秋ノ暁キ■■■■■■■■■■■■■ク主ナキ庵裡ノ何■ヨリトモナク数旬ノ間レ■クトモナク■多ル鐘ノ音続キテハ絶ヘ絶ヘテハ続キ恰モ庵主生前日常ト坒異ナダルコト■行人皆■■■シテ■■トシテ思シ又暗然トシテ■庵主ノ徳行ヲ想ヒ出デテ眼ノアタリ竒瑞ト共ニ隨喜涙ニカキクレタリトノコナリ庵主ノ計一度傳ルヤ當馬場村■所遠近老若■■■■■■■ニ皆嘆キ悲シミ且ツ之ヲ惜ミ之ガ徳行ヲ永久ニ傳ヘ殘サンガ為メ相計リテ庵ノ傍ラニ碑ヲ建立シ懇ロナル供養ヲナシタルトナシ爾来来星霜ヲ閲スルコト実三百五十有餘年庵ハ朽チ果テ殘影ヲモ止メズ碑ハ風雨ニ晒ラサレ周囲ヲ薮ノ樹木ハ鬱蒼トシテ足ヲモ入ルル能ズ時代ノ推移ハ人心ヲシテ此ノ庵主ノ徳行ヲ■霊域■■■古蹟ニ封■■スハ悪戯等ヲナスモノアリ斯カル時ニハ其ノ都度霊顕アラタカナル奇端ヲ表ジテ其ノ人ヲ誡シムル此ノ古墳ニ対スル奇蹟ハ実ニ枚擧ニ遑アラズ然ルニ此ノ由緒アル古蹟見ル影■■荒廃シ祭司供養ヲ怠タルコト何歳ナルヤヲ計リ知ラズ茲ニ於力斉蔓ウルモノ相集ヒ更ニ今■タニ碑及一字ニ建立シ爾後一丗年九月八日トシテ縁リ■トナシ亡キ庵主■善供養■ミ且ツハ賛同者各位ト倶ニ守リ本尊トモアガメタリ茲ニ発企擧ニ出タルモ微弱ナル有志一同ノ力ニテハ■■貫徹ヲ期シ難キタメ諸彦ノ御同情■■リ御賛同■■賜り■該古績ノ由来ヲ略述シ高覧ニ供シクルモノナリ
  昭和五年六月八日 発願者 合唱敬白



所在地 北区王子6-9 (スーパーサミット王子店)

御祭神 白龍大明神
     黄龍明神 
     青龍明神 
     大山大神 
     一位大神
 
御祭日 9月10日



  御由緒
守護神として先祖が奉斎してきた神社で、北海道斜里郡清里町緑に小林直喜が木工場を興し戦後現在地に移って鉛筆の製造を手掛け、白羊鉛筆株式会社(現、株式会社べネフォーム)の邸内社として祀り、平成5年(1993)ここに現社殿を修復・新装した。

  御神徳
一位の木は別名アララギとも呼ばれ古くから笏の材料として用いられ、鉛筆の素材でもあった。家業の励みに日夜一位の神に感謝し、一位の自生する深山の神の御恩を仰いだ。山は白龍大明神(西方)青龍明神(東方)黄龍明神(中央)の水神によって水源を護り、その水によって木は栄え、木は山の湧水を豊かにする。すべて神恩である。日夜御祭神に報恩感謝して努め励むことにより幸え給いて開運に導く神々である。
 平成6年(1994)9月吉日
 株式会社ベネフォーム 代表取締役社長 岡秀一 敬白


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永山
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